学童疎開 錦華その2

 昭和19年6月に学童疎開が政府の閣議で決定される。

 錦華国民学校においては、7月17日全職員に対して長谷川学校長から、学童疎開についての指示伝達があった。

 *学童疎開は、政府の方針に基づいて強力に実施することになった。

 *縁故疎開を本体とする。 縁故疎開のでき難い者は3年生以上を集団疎開させる。

 *身体の悪い者、病弱者、集団疎開に適しない者は縁故疎開を極力進める。

 *宿舎は、旅館・集会所・寺院・教会等で、1か所100名程度。

 *付添職員は、教職員(50名に1人)・寮母(25人に2人)・作業員(25人に1人)・

          嘱託医(1か所に1人)

 *疎開先の教育は、受入れ側の地元国民学校の児童として教育する。

 *主要食糧・調味料は農商務省で一切引き受ける。

 *生活費は食費20円とその他雑費が掛かるが、そのうち保護者は10円負担。

 *教職員は、児童の日常生活の指導をし、併せて地元国民学校の教育方針に則って児童の教育

   に当たる。教職員の待遇は、現在支給の給与に特別手当(25円位)を加え、食事を給する。

 *残留部隊は、1・2年を主とする。

    以下略

  疎開先は埼玉県児玉郡と指定されており、具体的な町村と宿舎の決定は学校に一任された。 学校長、教職員は何度も現地に赴き、交渉をかっさねた。交通不便な田舎のことであるので職員は毎日あせを流して自転車で駆け回った。

 集団疎開地が決まると、父兄に疎開地の状況を報告し参加を進める。集団疎開をしない者は縁故疎開をするよう強くすすめる。

 8月初めになると、子供たちは「集団疎開」「縁故疎開」「残留」の3種類にわけられる事となった。

  錦華国民学校集団疎開参加児童  533人

          残留児童          89人

 「国の宝を守るために」という政府の方針に従ったものの、いよいよ自分の子供をだすことになると「食べ物はどうなんだろう・・うちの子は下痢しやすいが・・お漏らししないか・・」と両親の気持ちは複雑だったと考える。

 19年8月21日 小さなからだで大きな荷物(各人20㎏まで)を持って、教職員・両親や残留組の

児童に送られて疎開地の埼玉県に向かう。

 その日の内に疎開先の駅に着くと、現地の学童たちや町や村の人達が大勢で迎えてくれた。

 

                 「千代田区教育史」、「錦華の100年」より   (三一小林)